工場勤務の兵隊たち        

エッセイスト 道下 淳

 中部4部隊(岐阜市長森・歩兵68連帯留守隊)から名古屋へ、「分遣」という名目で放り出された。昭和19年(1944)11月下旬のこと。10月1日入隊の同年兵ばかり、10名足らずであった。出発前日、被服係の下士官から、現在より少しはましな軍服と軍靴を支給された。これでちょっと兵隊らしくなったと、うれしかった。

 このときまで筆者の兵科は歩兵だと思い込んでいたが、技術兵であることを知った。どうせ死ぬなら歩兵でと、徴兵検査のとき「歩兵」と申告したが認められなかったのだ。すでに野戦(戦場)に出発した同期の人たちに対し、申し訳なく思った。それと同時にひょっとしたら、生きて帰ることが出来るかもしれないと思った。

 名古屋は覚王山付近にあった紡績工場(閉鎖中)の寄宿舎に入った。ここに全国から徴集された11月1日入隊の技術兵が500人ほど集った。また将校や下士官たちもそろった。「千種中隊」と名付けられ、予備役の老中尉が中隊長となった。ノモンハン事変(昭和14年の夏、中国東北部で発生した日ソの紛争)に従軍したという元気な准尉が、庶務と訓練全般を見ることになった。

 新兵たちはわずか1カ月早く入隊しただけで威張る古兵に引率されて、千種製造所へ通った。筆者は名古屋の地理に明るかったためか、糧秣(りょうまつ)担当の石川寿軍曹とともに、主要食糧の買い出しに西三河・尾張北部の農協を回った。当時は銃後(一般社会)も食糧難で、どこの農協でも余分な保有米など、全くなかった。でも東海軍の命令書があるため、2~3の農協が連絡し合い、必要量を確保してくれた。もちろん、大豆とかダイコンなどの野菜類も、主食としていただいた。西三河を回っていたとき、ある農協で海軍航空隊の食糧係りと出合ったことがある。トップが中年の海軍中尉だった。雑談のなかで、海軍は昔の連合艦隊ではない。ミッドウェー海戦(昭和17年6月)で、航空母艦を4隻も失った。いまでは基地航空部隊を頼るより方法がない―と、しんみりとした口調で語られた。わが国の陸海軍とも、もう開戦当初の戦力が無いと思うと、頭が真っ白になった。

 1期の検閲(入隊後4ヵ月で実施)が済み1人前の兵士として扱われ出したころ、空襲のため紡績工場内の兵舎は全焼。支給されていた小銃なども焼失した。これが原隊だったら、営倉(犯罪者を収容する施設)だと准尉殿からきつく叱られた。しかし全員消火活動に出払っていたときの出来事なので、不問となった。この火災で軍人として最高の名誉である金鵄(きんし)勲章を焼き、しょげている下士官もいた。このあと千種隊は中央線千種駅に近い鉄道学校の宿舎に移った。同学校は空襲を受け半壊状態であり、永くとどまることは出来なかった。同学校に半月ほどいて、春日井市にあった東洋一と言われる銃器工場鳥居松製造所の寄宿舎に移った。同所にはやはり技術兵約500名が駐留、鳥居松中隊を名乗っていた。そこで千種中隊と鳥居松中隊が合併、新鳥居松中隊となった。兵隊たちは作業に動員された。それは鳥居松製造所での銃器生産と、工場疎開作業であった。

 名古屋造兵廠は本部を熱田区六野町に置き、同所に1.熱田、道路向いに2.高蔵、千種区に3.千種、春日井市に4.鳥居松、5.鷹来、現岐阜市に6・柳津とそれぞれ製造所を持っていた。筆者は食糧確保係を下番(交代)、鳥居松製造所長 龍見南海雄(たつみなみを)大佐の当番となった。当番というのは高級将校に軍務として仕え、身の回りの世話・連絡などをする兵隊のこと。おかげで造兵廠内は、ほとんど見学することが出来た。各製造所で造っている兵器には、下記のようなものがあった。(製造所名は1~6で)

1.山砲▽対戦車砲▽偵察機のエンジン
2.火砲の薬きょう▽砲弾
3.機関銃▽機関砲▽99式小銃
4.99式小銃▽100式機関短銃▽99式狙撃(そげき)銃▽拳銃
5.99式小銃実砲(弾丸)▽機関銃実砲
6.20ミリ機関砲

 このほか各製造所とも、フ号兵器(風船爆弾)用の気球を作っていた。気球に爆弾をつり下げ、飛ばす。すると偏西風に乗って太平洋を越えアメリカに到着、爆発するというもの。気球の材料は最上の和紙。美濃紙の産地である本県は、懸命に紙の生産をした。コンニャク糊(のり)で何重にも張り合せる。戦後米国側の記録によると、山火事が発生したのみで、ほとんど被害は無かったという。

 陸軍に制式銃器として自動小銃のあったことを知る人はほとんどいない。南方のニューギニアや、フィリピンの激戦地レイテ島などで使われた。機関短銃とも、短機関銃とも呼ぶ。口径は8ミリで、拳銃の弾丸を。長さは86センチ。木製の銃床がつく。扇型弾倉には、30発収納出来る。交換性に欠けることが、一番の欠点。それぞれの銃に合わせた弾倉を使わないと、射撃が出来なかった。

 レイテ島の攻防戦(昭和19年末から翌年)には岐阜県人の多い泉(いすみ)部隊も加わっていた。苦戦する友軍のため、空挺(くうてい)部隊が増強された。この部隊は機関短銃で装備されていた。作家大岡昇平氏の代表作のひとつ「レイテ戦記」で、このときのありさまを下記のように記している。

 『兵はみな100式短機関銃を持っていた。(中略)命中率は悪いが1分間に900発発射出来るので、接近戦には極めて有効であった』

 筆者も鳥居松製造所の射場で、試射をしたことがあるが、跳弾が出たり、機関部の円筒が弾倉に食い込んだりした。これで使いものになるのかと思うと、やりきれない思いがした。落下傘部隊用のラテ銃も、鳥居松製造所で生産していた。中央から銃身と円筒部が分離するので、ズックのケースに入れる。降下のとき肩にかけた。昭和17年2月。陸軍の落下傘部隊がスマトラ島(インドネシア)の油田確保に降下、大成功だった。このとき機関短銃も使用されたらしいが、詳しいことは聞かれなかった。

 昭和20年8月14日、龍見大佐は兵器本部(東京)へ出かけられた。当番兵の筆者は同製造所の本部棟で、事務員たちと戦争の成り行きについて話し合っていた。昼ごろ本部棟に近い所外の水田に、1トン爆弾が落とされた。鉄筋コンクリートの本部棟が浮き上がったように感じられた。室内の書類棚は全部倒れほこりでいっぱい。筆者は反対側の壁にたたき付けられ、胸を打った。爆撃が済んだ後から、空襲警報のサイレンが鳴った。このときの打撲で復員後床についた。が、当時は張り切っており、応急手当てのまま動いていた。戦後、この爆弾攻撃は原子爆弾攻撃の事前調べだったと聞いて、びっくりした。龍見大佐は明け方に帰って来られた。終戦の情報を持って。玉音放送当日の朝のことであった。

 
名古屋造兵廠の中心となった熱田製造所の工場群。広場では工員たちの訓練中。