今沢町かいわい        

エッセイスト 道下 淳

  1枚の写真がある。今から80年ほど前に写された岐阜市今沢町から南の神田町1辺りにかけての風景である。珍しいので、大切に保存してきた。この写真について30余年前に調べた時のメモ書きが出て来たので、紹介する。

 写真は相当高い位置から、写されている。今沢町から同町内を俯瞰(ふかん)できるところは、すぐ北隣りにあった今小町の岐阜警察署(現在の岐阜商工信用組合付近)前の火の見ヤグラくらいしかない。

 この辺りは明治の中ごろ、市内でも有数の繁華街であった。明治42年(1909)に岐阜市教育会が制定した「岐阜市巡覧唱歌」8番・9番に、かいわいの風物が歌い込まれている。

⑧農工銀行岐阜倶楽部 見つつ進めば裁判所  道を隔てて警察署 新聞社には岐阜、濃飛 
⑨今小町なる勧工場 ここにも人の足繁く   郵便局は其の前に 交換局も併せたり

 歌詞のうち勧工場は商品を持ち寄って売る施設。交換局とは電話局のことである。それは今小町・美江寺町の交差点西北角に。また勧工場は東北角にあった。勧工場の2階には、寄席の関本座が設けられていた。

 写真中央上部の、大きな建物(寄せ棟屋根)は巡覧唱歌にある濃飛農工銀行。場所は神田町2。空襲にも耐え抜いた。その跡地が今の商工会議所である。農工銀行の前、神田町通り右側(西)に、望楼を乗せた大きな2階建てがある。今小町角から移転した岐阜郵便局で、様式のモダン建築であった。

 神田町通りの手前が、やや広くなっている。右手の植え込みのある建物裁判所が、道路からやや引っ込んでいるためである。このわずかな広さを利用し、祭礼のときの造りみこしの舞い込み。手踊りなどの披露が行われた。その前がちょうど新聞社で、見物客の多くが同社のためのものと誤解していた。近くにある他社が「我が社の前でも」と働きかけたが、どうにもならなかった。

 地の利を得たのは濃飛日報社。その南の洋館建てが瀬古写真館である。瀬古と濃飛の間の道が朝日町で、その東には芸者置屋が目立った。

 そこには「イギリスばあさん」と呼ばれた太田ひさの住む新駒屋があった。彼女は芸名を「お花」と呼び、ヨーロッパ各地で芝居・手踊りなどの興行を行った。フランスの彫刻家ロダンのモデルになり、帰国のとき作品2点をもらった。やはり彫刻家の高村光太郎がロダンの話を聞いたり、作品を見たくて同家を訪問した。昭和2年(1927)のこと。そのとき神田町1いろは牛肉店で手みやげ用にと、たくさんの牛肉を買い、店の人をびっくりさせたという。また付近に当時としては珍しいウグイス芸者豆千代も住んでいた。

 郵便局のやや右(西)に、楠の大木に囲まれた地域があった。今の市立図書館も含まれる。八ツ寺町のNTTがあるところで、戦前まで楠堂と呼ぶ私塾があった。運営していたのは、農工銀行頭取の矢橋亮吉。苦学生を集め、学費生活費のすべてを支給、中学や専門学校・大学に通わせた。常時10人前後の塾生がいた。矢橋はそれを「書生道楽」だと、笑っていた。この仕事は再評価したいものである。現在ビルと鉄さくの間に、大きな楠と「楠堂跡」と刻んだ石柱が、昔を物語っているだけである。

 裁判所は戦災で全焼、西北角に併設されていた検事局も戦後独立した。両者ともセメント瓦の仮建築だった。うち裁判所は神田町筋に向って平屋建て、検察庁は北側の鷹見町に玄関を持った。今の市庁舎北口から、やや東寄りのところである。敷地が狭いので、1部2階建てだったように覚えている。

 昭和25年ごろの検察庁には、若手の元気な検事が3人いた。うち2人はやり手で、ハルピン街事件を始め、多くの経済事件を手がけた。武藤県知事がからむ経済事件も挙げられ、新聞の全国ニュースによくのった。公判の傍聴・取材も現在のように難しくなく、話題の公判のときなど検事席などの背後にも傍聴人がいた。

 その西隣りで、ほぼ市庁舎の駐車場になっている場所が、鷹見拘置所だった。記憶でははっきりしないが、拘置所の正面出入口近くの道路に公衆便所が設置されていた。その便所の陰で容疑者を送り迎えする人たちの姿が、ぼんやり脳裏に残っている。戦前はたしかにあったそうだが、いつごろまであったかを知りたい。戦前岐阜の市街地には、多くの公衆便所があったという。矢島町2の橋のたもとにもあった。それが戦後になると、ぱったり姿を消す。面白い現象である。長良橋南詰め上流部の小公園に、ちょっとスマートな公衆便所がある。これは戦後公募したものである。

 北隣りの今小町も、明治20~40年代は、よくにぎわった。司町の県庁が近かったからである。岐阜日日新聞社が同町で創刊したのは、同14年。同社の南隣りに玉井屋、北隣りに津の国屋といった当時岐阜を代表する旅館も開業していた。

 岐阜日日新聞の文芸記者渡辺霞亭は、名古屋で医学生だった。面白い小説を書くので、新聞社が引っ張った。それがいつの間にか津の国屋の娘と結婚、養子になっていた。のち大阪毎日新聞に移り、新聞小説家として大成した。

 津の国屋の道向いに、徳文屋という料理旅館があった。それが金碧楼の名前で、県内初の西洋料理を始めた。明治19年のことである。当時は塗り膳に西洋料理の皿を乗せた。それをあぐらをかき、ナイフとフォークで食べた。「西洋料理は食べにくい」というのが、市民の食後感だった。


写真は昭和初年の今沢町かいわい